大念寺の歴史

こちらでは、「大念寺」の歴史についてご紹介しております。

開創の由来

 開基は、大正2年の『大念寺明細帳』に

「本寺住職沿革ハ元禄十二年以前ハ不明ナルモ以降今日に至ル二十七代入院住職左ノ如シ」とあり、元禄13年(1700年)に教山和尚が住職として晋山された記録から残っています。しかし、本山(平野大念仏寺)の末寺帳には、元禄13年以前の記録も残っています。よって、開基は何時ごろかは不明ですが、元禄13年以前から、相互扶助の原理を持つ民衆念仏と言われる融通念仏としての念仏道場を開いていたといえましょう。

一応元禄13年(1700年)の教山和尚を初代住職として数えますと、現住職の康永住職30代ということになります。

大念寺本堂倒壊

こ政元年(1854年)11月4日の大地震によって本堂が倒壊いたしました。しかしそのような逆境を乗り越え、わずか1年5ヶ月の安政3年3月19日には檀徒一同は再建を決し、大阪奉行所へ建築許可書を提出しておられます。そして、安政5年(1858年)10月29日、第二十一代住職源茂和尚によって落慶法要が営まれています。

安政5年に建築された旧本堂内陣
安政5年に建築された旧本堂内陣

明治時代(大念寺激動の時代)

明治2年の『宗門人別御改帳』によれば、大蓮村の総戸数87件、寺3軒、庵6軒で、人口336人とあります。大蓮村の寺は、大蓮寺(臨済宗京都妙心寺末)・真福寺(融通念仏宗)の3ヶ寺と庵6軒でしたが、大念寺以外は全て無住でした。そのため、廃仏毀釈の波にのまれ、明治6年までには無住の寺と庵が全て廃寺になりました。しかし大念寺だけは幸運にもその当時に住職がおられたお陰で、この激動の時代を乗り越えました。

大正時代から戦中

大蓮寺の廃寺で、宝塚の大般若経600巻が大念寺に預けられました。大正時代の7年と10年に、大般若経転読の法要が執行されていました。もともと禅宗の行事であるため、大正10年を最後に、転読会は現在まで行われていません。

昭和12年の日中戦争がおこり、戦時体制は強化され、昭和16年には太平洋戦争が始まりました。そのために、金属不足で、兵器や弾丸を作るのに必要な鉄と銅が回収され始めたのは、昭和14年からです。そして17年にはピークになり、寺院の梵鐘や仏具なども強制供出されるまでになりました。当然大念寺においても双盤が供出されました。昭和17年11月の「供出免除願」の控えには、最小限の必要な仏具が記載されています。

更に、本山(平野大念仏寺)からは軍用飛行機献納資金が募集されて、当寺からも56人の檀家さんが計77円を寄進されています。ちなみに『大源号』の名前は、本山の山号からとられたものです。

 教団の意向によるとはいえ、当寺も戦争協力を檀信徒に説き、人を殺す武器になる

軍用戦闘機『大源号』
本山大念仏寺の供出でつくられた軍用戦闘機『大源号』

本山大念仏寺の供出でつくられた軍用戦闘機『大源号』

軍用飛行機への浄財協力したことは誠に遺憾であります。その反省を踏まえ、当寺では83年〜84年に反戦法要を行い、仏教の戦争責任を問い、戦争中の戦争肯定や、戦争推進を懺悔するとともに、反戦平和の姿勢を明確化致しました。しかし、教団全体で軍用飛行機への浄財を勧募したにもかかわらず、戦後50年を過ぎた現在も、教団は教団の仏教の戦争責任の反省声明を出していないのは誠に残念でなりません。

戦後から現代

 昭和17年に第二十九代大念寺住職を任命された良全住職は、歴代住職の中で、45年と最も長い住職歴です。そのため、大念寺復興の業績は多大でした。

実践教化として昭和24年には児童教化として、子ども会活動、昭和26年には寺報「こころのかがみ」の発行、さらに伝法法要は昭和27年と昭和60年の2回勤められました。そして何よりの業績は、昭和57年4月の本堂再建です。それが現在の本堂です。天井には、4年がかりで自分で描かれた約80枚の花の絵が描かれています。