即心念仏とは、仏と離れないこと。
つまり仏と私が一つになったと信じて唱えるお念仏です。難しいことはありません。苦しみの世界から、浄土という仏の視点から観察できる世界を味わうことが出来ます。自分の心が満たされないと他者を否定しやすくなります。他の人たちの幸せや生き方を受け入れるには、人と比べるのではなく、先ず自分の生き方、私を認めるようになることが大前提です。
我が宗にはお念仏を日課百遍するという行があります。それも確かに大事なのですが、宗祖良忍上人は、その時代の深い悲しみや苦しみに生きる人たちに、共に生きる願いを求めることの意義を明らかにするために「一人一切人・一切人一人、一行一切行」の教えを説かれました。この宗祖の願いを大切にしようと、皆で称える別事念仏(べつじねんぶつ)の念仏実践行をしようと集っています。平成13年より定期的に月一回僧侶の仲間達がお寺に集まり、1・2時間ほどの念仏を行うというものです。
自己探求、自己実現、自己超越、自己解放につながり、「今ここに生きているんだな」と感じる体験や自分への気づきができます。
私たちの日常は自分を殺しながら仕事をし、誰かの機嫌や人に合わせて生きていかねばなりません。そんな中で自分の体や心は何を求めているのか?という自分探しの実践の場になります。 そして、人生の土台、枠組み、価値づけを見つけ出すことができます。
私たちの人生には背負いきれない問題も抱えています。例えば、病気、家族、経済、人間関係などの問題や苦難。その答えのない問題に対して楽な気持ちになれます。
「言うは易し行うは難し」で、たかが1・2時間ほどのお念仏行では、なかなか仏は自分の心に顕れません。だから本当に己身に弥陀はあるのか?仏と一体になれるのか?念仏で救われるのか?など疑いながら信じるということが起こってきました。この「疑い」ということは、仏教徒にとっては、仏法を誹謗することで大きな煩悩の一つです。
しかしこの念仏実践行のお陰で、「煩悩の自覚」「愚かな自分の自覚」、つまりお念仏を称えながら、手を合わせながら仏に背く自分が明らかにされるのです。お念仏を疑うことを通して、本当のお念仏に出遭うのです。
この愚かな自分に気づかない時に称える念仏と、愚かさに気づいて称える念仏とは全然違うので。
なぜなら愚かさに気づいた後は、「菩薩の自覚」をもった念仏と云えるからです。己の驕りや傲慢さに気づき「生かされている生命」「大きな力に支えられている自分」という感謝のものの見方に変えさせてもらえるのです。
「我が心こそ仏」とピンとくる(腑に落ちる)ことができれば、強い信心を頂き、苦しく・辛く・悲しくても前に進んで生きる力、わが身は人間に生まれたという-そして、「今ここに」という心をもたせてもらえるのです。
この信心こそが、目の前の病気が治るとか、お金が儲かるとかという安易な安心ではなく、本当に生きる力を与える信心なのです。このようなことは正しく理屈ではなく、実践しなければわからない信心なのです。
そのためにも今こそ念仏行の大切さと素晴らしさを知っていただき、少しでも多くの方が念仏実践行を、私達と共にされることをお勧めいたします。
お念仏は、瞑想で集中力を上げて、微細な感覚を丁寧に観察という過度の集中をあえてしない方法です。
坐禅の禅定体験という「静」に比べ、お念仏を唱えるということは「動」であり、声に耳を澄まし、声に集中する感じになります。
○声に出すお念仏を少し休んで、数息法(自分の呼吸を数える)してみる。
○実際の阿弥陀さまや他の仏さまのお姿の相好(そうごう)を観察する。
○仏さまのお姿の相が曖昧ならば、具体的な仏の相好、白毫(びゃくごう)の相を観察する。
「南無阿弥陀仏」とお唱えする宗派は、旧仏教において四教団があります。
・法然上人の浄土宗
・親鸞上人の浄土真宗
・一遍上人の時宗
・良忍上人の融通念仏宗
その中でも我が宗がお念仏を「行」としてとらえているところに特徴があります。
宗祖良忍上人は、学僧としての理論的な勉学によって「解行二門」(意味を理解した上で実践を行うこと)の大切さを強く感じておられました。その実践観法としての念仏行をされたことは歴史的資料で明らかです。
その宗祖の念仏の理論体系は「唯心の浄土、己身の弥陀」(我が心こそが仏という教え)にあります。そして念仏実践こそが「我が心の仏を感じるような禅定体験」という素晴らしいものです。
その宗祖の教えと実践に帰ろうというスローガンに念仏会を行っています。